原画情報: |
1938年 原画サイズ(95.5×91.0cm) 所蔵:大原美術館 |
作者紹介: |
藤島 武二(ふじしま たけじ、1867年10月15日(慶応3年9月18日) - 1943年(昭和18年)3月19日)は明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重要な画家である。ロマン主義的な作風の作品を多く残している。
鹿児島市の薩摩藩士の家に生まれた。はじめ四条派の画家や川端玉章に日本画を学ぶが、のち24歳の時洋画に転向(日本画の作品は殆ど現存しない)。1896年(明治29年)、1歳年上の黒田清輝の推薦で東京美術学校(現・東京藝術大学)助教授に推され以後、没するまでの半世紀近くに渡り同校で後進の指導にあたった。1905年(明治38年)、文部省から4年間の留学を命じられ渡欧、フランス、イタリアで学ぶ。帰国後、教授に就任。
黒田が主宰する白馬会にも参加。白馬会展には1896年(明治29年)の第1回展から出品を続け、1911年(明治44年)の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍した。
1901年(明治34年)2月ごろから6年間担当した与謝野鉄幹・晶子が刊行した雑誌「明星」や、晶子の歌集『みだれ髪』の表紙では流行のアール・ヌーヴォーを取り入れている。ほかにも装丁本がある。
晩年は宮内庁からの2つの依嘱、昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作が切っ掛けで風景画の連作に挑んだ。1937年(昭和12年)、最初の文化勲章受章者の一人となる。1943年脳溢血のため永眠。享年75。 |
作品紹介: |
「耕到天是勤勉哉 耕連空是貧哉 (耕して天に到る、これ勤勉なるかな。 耕して空に連なる、これ貧しきかな。)」
国土が狭くとも山頂まで畑を耕す日本人の勤勉さを評した中国人の言葉です。題名の「耕到天」はその冒頭部分から採られ、杏花咲く信州・安茂里あもりの里(現・長野市)が描かれています。遠景までリズミカルに続く緑の畑と茶色の山肌に杏あんずの花の彩りが春らしい暖かさを加えています。「天」である青空をぎりぎりまで少なくし、山の頂まで開墾された様子を色面で強調した構成。画面の単純化を目指した藤島の晩年の集大成といえる風景画です。
明治期以降、画家たちは西洋で生まれた油彩画を日本人が描くことの意義を考え、独自の様式を創造していきました。藤島は、油彩画近代化の中心として、日本と東洋を意識した絵画を展開し、簡潔な表現の中にのびのびとした明るい色彩を持つ作風を築きました。
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