原画情報: |
1893年 86X75.5cm オルセー美術館所蔵
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作者紹介: |
エドガー・ドガ(Edgar Degas, 1834年7月19日 - 1917年9月27日)は、フランスの印象派の画家。フルネームはイレール・ジェルマン・エドガー・ドガ(Hilaire Germain Edgar de Gas)。Edgarはエドガール、エドガルとも表記される。
1834年、パリに銀行家の息子として生まれる。「ドガ」(de Gas)という貴族風の苗字を持つが、ドガ家はフランス革命後に勢力を伸ばした新興ブルジョワで、エドガー・ドガの生まれた頃にはさほど裕福ではなかったらしい。 ドガは1855年、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でアングル派の画家ルイ・ラモートに師事した。1856年、1858年にはイタリアを訪れ、古典美術を研究している。
ドガは通常印象派の画家の一員と見なされている。確かに彼は1874年以来、印象派展にたびたび出品し(全8回の印象派展のうち、第7回展以外のすべてに参加)、1862年にマネと知り合ってからは「カフェ・ゲルボワ」の画家グループにも参加していた。しかし、光と影の変化をキャンヴァスに写し取ろうとしたモネのような典型的な印象派の画家たちと異なり、ドガの制作の基盤はあくまでもルネサンスの巨匠やアングルの画風にあった。古典的手法で現代の都会生活を描き出すことから、ドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けた。但し、彼も他の印象派の画家たちと同様、浮世絵、特に北斎の影響を強く受けていることが小林太市郎によって指摘され、日本におけるジャポニズム研究の発端となった。
彼の作品には室内風景を描いたものが多い。野外の風景を描いたものは、競馬場など人々の多く集まる場所に限られ、彼の関心の対象は徹底して都会生活とその中の人間であった。これには彼が俗に『まぶしがり症』といわれる網膜の病気を患っており、外に出ることがままならなかったことも関係しているとされる。殊にバレエの踊り子と浴女を題材にした作品が多く、彼女らの一瞬見せた何気ない動作を永遠化する素描力は秀逸である。パステル画もよくした。パステル画に関しては、父が負債を隠したまま亡くなったため、その負債を返済するために大量に絵を描く必要があったから、という理由もある。また、晩年は視力の衰えもあり、踊り子などを題材とした彫刻作品も残している。
また、酷く気難しい性格のため画家仲間との衝突が絶えなかったが、晩年はドレフュス事件で有罪を主張したためにゾラなどの数少ない友人を失ってしまったという。
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作品紹介: |
この作品は、「踊り子」の連作の中でも後期に属する作品である。エドガー・ドガは、この作品で自分の技術に一層の磨きをかけている。これまでのドガの作品に登場するバレリーナたちは現実的な姿で描かれていたが、この作品の中のバレリーナはもはや以前の雰囲気を漂わせてはいない。ドガは、女性嫌悪主義者としての女性の醜さを表現した絵をよく描いた。それをブローデルを描いた絵から読みとるのは難しいことではない。実は当時、バレリーナのモデルたちは、売春で生計を立てるのが当然だと受け入れられていた。ドガがそれを絵に表現したというのは、この現実と無関係ではないのである。『更衣室のバレリーナ』では、ドガはバレリーナの姿を露骨に覗き見的な観察の対象として捉えている。しかし、『青い踊り子たち』は、全く異なる雰囲気を醸し出している。この絵では、バレリーナは観客の視線の先にいるのではなく、自然に背景と一体化しているのだ。バレリーナを描いた他の作品と比較して、主題や構図に大きな違いは見られないが、表現形式としてはバレリーナの特徴というよりも彼女たちの姿勢や動作に更に注目しているようだ。ドガは、絵画を音楽に例え、作曲するのと同じように全ての構成を計算するべきだと主張したが、この絵に表現されたイメージはかなり感情的である。ドガの絵において、バレリーナは常に観客の目に晒されている対象である。そして、ドガは観客の前では現すことのない、バレリーナの隠された姿を絵に表現することを楽しんだ。こういった姿は、娼婦や洗濯婦を描く時にも何度も表現された。ドガは、緊張が緩み、他人の視線を意識しなくなった時に現れる姿を捉え、それを長年に渡って描き続けた。『青い踊り子たち』で、舞台の上ではなく、舞台の外のバレリーナを描いたという点からすると、これ以前の作品と大して変わらない。しかし、姿勢や動作に焦点を当てているという点においては、対象を表現する方法が変化したことを見てとれるのである。
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