原画情報: |
1916年 40.0×29.5cm 東京近代美術館 |
作者紹介: |
岸田 劉生(きしだ りゅうせい、男性、1891年6月23日 - 1929年12月20日)は、大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストの岸田吟香。
1891年(明治24年)、明治の先覚者、岸田吟香の子として東京銀座に生まれる。弟はのちに浅草オペラで活躍し宝塚歌劇団の劇作家になる岸田辰彌。東京高師附属中学中退後の1908年(明治41年)、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事した。1910年(明治43年)文展に2点の作品が入選している。
1911年(明治44年)『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、柳宗悦・武者小路実篤ら『白樺』周辺の文化人とも知り合うようになった。劉生自身生前は『初期肉筆浮世絵』、『図画教育論』や、没後に出された随筆『美の本体』(河出書房)、『演劇美論』(刀江書院)など、多くの文章を残し、これらは『岸田劉生全集』(全10巻、岩波書店、1979年~1980年)にまとめられた。
1912年(明治45年)、高村光太郎・萬鉄五郎らとともにヒュウザン会を結成、第1回ヒュウザン会展には14点を出品した。これが画壇への本格的なデビューといえる。(なお、ヒュウザン会展は2回で終了し、1913年(大正2年)の第2回展ではフュウザン会と改称していた)。劉生の初期の作品はポスト印象派、特にセザンヌの影響が強いが、この頃からヨーロッパのルネサンスやバロックの巨匠、特にデューラーの影響が顕著な写実的作風に移っていく。
1915年(大正4年)、現代の美術社主催第1回美術展(第2回展以降の名称は「草土社展」)に出品する。草土社のメンバーは木村荘八・清宮彬・中川一政・椿貞雄・高須光治・河野通勢らであった。草土社は1922年(大正11年)までに9回の展覧会を開き、劉生はそのすべてに出品している。大正4年に描かれ、翌年の第2回草土社展に出品された『切通しの写生(道路と土手と塀)』は劉生の風景画の代表作の一つである。
1917年(大正6年)、結核を疑われ、友人武者小路実篤の住んでいた神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘に転地療養の目的で居住(結核は誤診だといわれる。庭に土俵を設け、来客と相撲に興じた)。1918年(大正7年)頃から娘の岸田麗子(1914年~1962年)の肖像を描くようになる。
1920年(大正9年)、30歳になったことを期に日記をつけはじめ、『全集』の一部や『劉生日記』(全5巻、岩波書店、1984年)にまとめられている。没するまでの幅広い交友関係が窺われる。劉生を慕って草土社の椿貞雄や横堀角次郎も鵠沼に住むようになり、中川一政らのように岸田家の食客となる若者もいた。1923年(大正12年)、関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居し後に鎌倉に居住。この鵠沼時代がいわば岸田劉生の最盛期であった。劉生の京都移住に伴い、草土社は自然解散の形になったが、劉生を含めメンバーの多くは春陽会に活動の場を移した。
1929年(昭和4年)、南満州鉄道(満鉄)の招きで生涯ただ一度の海外旅行に出かけ、大連・奉天・ハルビンなどに滞在する。帰国直後、滞在先の山口県徳山(現・周南市)で尿毒症のため死去する。38歳の若さであった。墓所は多磨霊園にある。
当時から潔癖症で知られており、汚物が腕に付着したことがあった時には「腕を切り落とせ」と言い張り、周囲を困惑させたことがある。 また、癇癪持ちで気に入らないことがあると当り散らすなど、社交的とはいい難い人物であった。 晩年までパリに行くことが願望であったが、「パリに行った暁には、フランスの画家に絵を教えてやる」などと豪語していた。
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作品紹介: |
日本において静物画は、明治 44(1911)年の高村光太郎による論文「静物画の新意義」
の発表以降、画家の自己表現にふさわしい分野として追求されるようになった。大正
5(1916)年から連続して描かれた岸田劉生の静物画は、そのような大正期静物画の代
表的存在として知られている。
《壺の上に林檎が載って在る》には《壺》(大正 5 年 4 月)に描かれたのと同じ器物
が描かれるが、その把手は欠損している。また岸田の静物画に描かれる林檎は、後期
印象派の受容や「生命主義」によって促された色鮮やかな林檎とは異なる印象を見る
者に与えたが、ほぼ均質な色と形を持つそれは、対象の個別的特徴にあくまで肉薄し
ようとする「草土社風」静物画における林檎との差異をも示す図像であると考えられ
る。
左上に署名; 右上に年記
3回草土社展(「壺の上に林橘が乗って在る」)(東京、赤坂溜池三会堂 1916) |