原画情報: |
897年 73.2x92.1cm ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵 |
作者紹介: |
ジャコブ・カミーユ・ピサロ(Jacob Camille Pissarro、1830年7月10日 - 1903年11月13日)は、19世紀フランスの印象派の画家。
カリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島(サン=トマ)島にて、ボルドー出身のセファルディムの四兄弟の三男として生まれる。ピサロの両親はボルドーからこの地に来て小さな貿易雑貨商をしていた。少年時代をこの島で過ごしたピサロは1841年、11歳の時フランスに渡り、寄宿舎制の学校に通うが、1847年ふたたび帰郷。しばらくは家業を手伝っていたが、セント・トーマス島に住んでいた画家フリッツ・メルビー(英語版)と知り合うようになり、メルビーに画家になるように勧められる。画家志望を断ち切りがたく思っていたピサロは、1855年に再びフランスに戻り、フリッツの兄弟アントン・メルビー(英語版)の助手となる。
ピサロは、パリ万国博覧会の美術展でコローやクールベの作品に感銘を受けたという。特にコローの作品には感動したらしく、実際にこの先輩画家のもとを訪れたりもしている。パリでは画塾アカデミー・シュイスに学び、そこでモネと知り合う。1860年代にはパリ近郊のルーヴシエンヌ、ポントワーズなどで、モネ、ルノワールらとともに戸外にキャンバスを持ち出して制作した。1870年には普仏戦争を避けてロンドンへ渡り、現地で落ち合ったモネとともにターナーらの作品を研究した。
ピサロは印象派展には1874年の第1回展からグループとして最後の第8回展(1886年)まで、毎回参加しており、計8回の印象派展に欠かさず出品した、ただ一人の画家である。
印象派の画家のなかでは最年長者であったピサロは温厚な性格だったようで、画家仲間の信望が厚く、ゴッホやセザンヌらの若い世代の画家を大いに励ましていたという。生来気難しく、人付き合いの悪かったセザンヌさえもピサロを師と仰ぎ、しばしば共同制作をし、マティスとはしばしば印象主義について熱心に討論した。ピサロは1885年頃から90年まで、ジョルジュ・スーラやポール・シニャックの影響で点描画法を試みている。晩年はパリ郊外のエラニーに住み、描くのに時間がかかり感情に追いつけないとして点描法を放棄し、風景だけでなくピョートル・クロポトキンらのアナキズムの影響を受け、農村を舞台にした人物画を多く描くようになった。生涯残した油彩画作品は1316点、版画は200点余り。
息子リュシアン・ピサロ(1863年-1944年)も画家・木版画家。リュシアンの娘オロヴィダ・カミーユ・ピサロも画家となった。
ポントワーズには彼の名を冠した美術館が建てられている。 |
作品紹介: |
ピサロはセザンヌなどに印象派を教え、モネと共に印象派を推進してきましたが、そこからの発展が、「モネの繊細な光のきらめきやセザンヌの構築的絵画表現」のような革新的な自己表現にまで行き着きませんでした。他の画家の成功に影響されたのでしょうか、点描画なども描いていますが、あまり成功したとは思えません。しかしピサロはこの絵が示す通り偉大な画家であることは間違いありません。
ピサロは晩年体調を害して、郊外で絵を描く事が困難に成った為、パリの繁華街の中心のホテルの窓から、この絵を描きました。二ヶ月で14、15点、時間や天候の移り変わりを描いたということです。 |