原画情報: |
1881年
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作者紹介: |
「モネ」という名前は短いようですが、本名はクロード=オスカール・モネとといいます。1840年にパリで生まれ、幼い頃にセーヌ河口の近くの町に引っ越します。裕福な家庭で育ったモネは、10代の早くから絵の才能を見せはじめます。 15歳の頃には、町中で評判になり絵画が売れるほどになっていました。そんなモネに風景画を描くようにすすめたのが、風景画家だったブーダンです。ブーダンと一緒に外で絵を描くようになったのです。 その1年後、モネはパリに移住して絵画を本格的に学び始めます。パリには芸術家たちが集まっていて、モネもここでルノワールやドガ、セザンヌたちと出会ったのです。そして、彼らは自分たちで新しい絵画をつくろうと展覧会を1874年に開くのです。しかし、モネをはじめとした彼らの絵画は、世間には受け入れてもらえませんでした。これまでの絵画は、重くるしい色に題材がしっかりはっきりと描かれているものでした。モネたちの絵画は明るくあざやかな色を中心として、見たままの景色を描いていたからです。この展覧会を見た評論家たちは、モネが展覧会に出品していた作品『印象・日の出』から彼らを印象主義者だといったのです。これが印象派と呼ばれるきっかけになったのです。 モネも他の印象派の画家たちも世間に認められるようになるまで、長い時間がかかりました。今でこそ、巨匠と呼ばれるモネでも、世間に認められて絵画が売れるようになったのは40歳以降だったのです。 生活が安定するようになったモネは43歳でジヴェルニーという村に移住します。風景画を描き続けていたモネは、花をとても愛していたのでとても広い土地に花や木を植えた美しい庭をつくりました。 それ以降のモネの作品の多くは、この庭の絵が中心です。有名な「睡蓮」もモネの庭の睡蓮が題材になっているのです。 印象派の中でも長生きだったモネは1926年86歳まで生きました。 |
作品紹介: |
クロード・モネは、ウジェーヌ・ブーダンに感化されて画家を志し、パリのシャルル・グレールのアトリエに入りました。1874年の第1回印象派展で、印象派の名称ともなった《印象・日の出》を出品し、批判を受けた話は有名です。パリの喧騒を嫌ったモネは、1878年に光の探求のため、蒐集家であるエルネスト・オシュデの家族と共に、ヴェトゥイユへ移住しました。1870年代のアルジャントゥイユに始まり、1880年代初期のヴェトゥイユは、晩年のジヴェルニーに続く、重要なインスピレーションの地です。高い地平線と青空へ真っ直ぐに延びる小路の構図により、ヒマワリが咲き乱れる庭の存在が効果的に描かれています。階段の上段にはオシュデ家の娘と息子、ワゴンの側にいるのは、モネの息子ミシェルです。モネは、ヴェトゥイユの庭を同じ構図でその他に4作品描きましたが、このシリーズの中で本作が最も充実した作品となりました。
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