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生産現場利用案内
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注意事項: 原画情報: 50×65cm 1873年 オルセー美術館 作者紹介: 「モネ」という名前は短いようですが、本名はクロード=オスカール・モネとといいます。1840年にパリで生まれ、幼い頃にセーヌ河口の近くの町に引っ越します。裕福な家庭で育ったモネは、10代の早くから絵の才能を見せはじめます。 15歳の頃には、町中で評判になり絵画が売れるほどになっていました。そんなモネに風景画を描くようにすすめたのが、風景画家だったブーダンです。ブーダンと一緒に外で絵を描くようになったのです。 その1年後、モネはパリに移住して絵画を本格的に学び始めます。パリには芸術家たちが集まっていて、モネもここでルノワールやドガ、セザンヌたちと出会ったのです。そして、彼らは自分たちで新しい絵画をつくろうと展覧会を1874年に開くのです。しかし、モネをはじめとした彼らの絵画は、世間には受け入れてもらえませんでした。これまでの絵画は、重くるしい色に題材がしっかりはっきりと描かれているものでした。モネたちの絵画は明るくあざやかな色を中心として、見たままの景色を描いていたからです。この展覧会を見た評論家たちは、モネが展覧会に出品していた作品『印象・日の出』から彼らを印象主義者だといったのです。これが印象派と呼ばれるきっかけになったのです。 モネも他の印象派の画家たちも世間に認められるようになるまで、長い時間がかかりました。今でこそ、巨匠と呼ばれるモネでも、世間に認められて絵画が売れるようになったのは40歳以降だったのです。 生活が安定するようになったモネは43歳でジヴェルニーという村に移住します。風景画を描き続けていたモネは、花をとても愛していたのでとても広い土地に花や木を植えた美しい庭をつくりました。 それ以降のモネの作品の多くは、この庭の絵が中心です。有名な「睡蓮」もモネの庭の睡蓮が題材になっているのです。 印象派の中でも長生きだったモネは1926年86歳まで生きました。 作品紹介: 晴れた青空の下、赤いひなげしの野原を歩いてくる婦人と子ども。日傘をさした婦人は妻カミーユ、摘んだひなげしの花束を持った子どもは、6歳になった長男ジャンだといわれています。空と野原の境を画面の中央に配し左側で青と赤の対比を鮮明にし、中央遠方に建物を置き見るものの視線を自然と誘導、絵に奥行きを与えています。野原の微妙な色彩の違いが青と赤を引き立てているのです。 よく見ると丘の上にもう一組の親子がいます。これも同一人物だと思います。向こうからこちらに歩いてきた時間の経過を表わしているのではないでしょうか?もしかしたら、そんな短い幸せの一瞬をこの絵に閉じ込めたかったのしれません。 <<前へ: 0020 次へ>>: 0034