原画情報: |
48×63cm 1872年 マルモッタン美術館 |
作者紹介: |
「モネ」という名前は短いようですが、本名はクロード=オスカール・モネとといいます。1840年にパリで生まれ、幼い頃にセーヌ河口の近くの町に引っ越します。裕福な家庭で育ったモネは、10代の早くから絵の才能を見せはじめます。 15歳の頃には、町中で評判になり絵画が売れるほどになっていました。そんなモネに風景画を描くようにすすめたのが、風景画家だったブーダンです。ブーダンと一緒に外で絵を描くようになったのです。 その1年後、モネはパリに移住して絵画を本格的に学び始めます。パリには芸術家たちが集まっていて、モネもここでルノワールやドガ、セザンヌたちと出会ったのです。そして、彼らは自分たちで新しい絵画をつくろうと展覧会を1874年に開くのです。しかし、モネをはじめとした彼らの絵画は、世間には受け入れてもらえませんでした。これまでの絵画は、重くるしい色に題材がしっかりはっきりと描かれているものでした。モネたちの絵画は明るくあざやかな色を中心として、見たままの景色を描いていたからです。この展覧会を見た評論家たちは、モネが展覧会に出品していた作品『印象・日の出』から彼らを印象主義者だといったのです。これが印象派と呼ばれるきっかけになったのです。 モネも他の印象派の画家たちも世間に認められるようになるまで、長い時間がかかりました。今でこそ、巨匠と呼ばれるモネでも、世間に認められて絵画が売れるようになったのは40歳以降だったのです。 生活が安定するようになったモネは43歳でジヴェルニーという村に移住します。風景画を描き続けていたモネは、花をとても愛していたのでとても広い土地に花や木を植えた美しい庭をつくりました。 それ以降のモネの作品の多くは、この庭の絵が中心です。有名な「睡蓮」もモネの庭の睡蓮が題材になっているのです。 印象派の中でも長生きだったモネは1926年86歳まで生きました。 |
作品紹介: |
印象派の名称の由来となった、巨匠クロード・モネが手がけた最も有名な作品のひとつ『印象 -日の出-』。本作は画家が10代の頃に住み風景画家ウジェーヌ・ブーダンから自然光(外光)の美しさを学んだ地であるノルマンディ地方のル・アヴールの港町の写真家ナダールのスタジオで開かれた1874年に開かれた第一回印象派展で画家が出典した作品である。当初『日の出』のみの名称で出品されていたが、名称が短すぎるとの指摘を受けて、画家自らが前部に≪印象≫と付け加えた本作は、画家の最も特徴的な手法である筆触分割(色彩分割とも呼ばれ、細く小さな筆勢によって絵具本来の質感を生かした描写技法)を用いて、ル・アヴール港を素描写生的に描いた作品であるが、当時の批評家ルイ・ルロワはル・シャリヴァリ誌に「印象?たしかに私もそう感じる。しかしこの絵には印象しかない。まだ描きかけの海景画(壁紙)の方がマシだ。」と本作を嘲笑する記事を諷刺新聞に寄稿し掲載されたが、この記事によって反伝統のバティニョール派が開催した最初の独立展覧会に出典した画家ら(モネ、ルノワール、エドガー・ドガ、カミーユ・ピサロ、ギヨマン、ベルト・モリゾ、セザンヌ、シスレーなど)は印象派と呼称されるようになった。本風景の海面、船舶、船の漕ぎ手、煙、そして太陽などの構成要素は筆触分割によって、形状や質感の正確性・再現性は失っているものの、大気の揺らぎや、刻々と変化する海面とそこに反射する陽の光の移ろい、陽光による自然界での微妙な色彩の変化など観る者がこの風景の印象として受ける独特の感覚は、英国を代表するロマン主義の風景画家ウィリアム・ターナーの『ノラム城、日の出』に強い影響を受けた画家がより進化(発達)をさせた筆触分割兼印象的描写でなければ表現できなかったものであり、この新たな表現手法こそ当時席巻していたアカデミー的な伝統主義とは決定的に異なるモネのアプローチ方法であった。なおこの第一回印象派展はルイ・ルロワの批評もあって不評に終わっている。 |
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